死ぬまでも夢に見ようかプリンシペ

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サントメ・エ・プリンシペへには三度、仕事で行った。サントメに三度、プリンシペには一度。ガボンから双発機でサントメへ着き、それからまた飛行機でプリンシペへ移動したはずだ。
サントメではレバノン人が経営するホテルに泊まった。外国人が行くようなレストランは高くて、しかも料理は料理というほどのものでもない。もっともここでサービスしてくれた若い女性にあくる日ホテルの近くで会うと、フランスでもやる頬へのキスを当然のようにしてくれた。ただの客なのに。気のいい人たちが多いのだろうか?いやいや一週間の滞在でそんなことがわかるはずもない。赤錆だらけの桟橋へ出ると海面近くの階段に人糞が散乱しカニがたかっている。

桟橋で海に糞するサントメ人


サントメは貧しいがプリンシペの州都サン・アントニオの住民はもっと貧しい。活気のない、なにか眠ったような街だった。昔栄えた街がそのまま残っている。当時の富はどこかへ消えてしまった。そんな街だった。泊ったホテルは強欲な主人が外国人と見て法外な料金を請求してきた。高すぎると言うと狡そうな目付でこちらの顔色をうかがい、少々の値下げをした。娘が何人かいてその一人で一番年下のアレシャンドラに部屋の世話をさせた。アレシャンドラは中学生くらいだったろうか。早熟で好奇心の強い子だった。漆黒の肌にアーモンド形の目をした美人だった。アレクサンドラと発音すれば仰々しい響きになってしまうが、ポルトガル語風にアレシャンドラと言うと、何か古風で風雅な音がする。

椰子酒を注いでおくれなアレシャンドラ ギニアの青に染まったおれに

夜は村人たちが家を出て役場前の道路を行き来して涼んだ。小さな家からコンロを持ち出し粗末なフライパンでカタツムリを炒り売る人もいた。ヤシ酒のつまみにするのである。

椰子酒に蝸牛噛むプリンシペ

あくる日ほとんど人気のない町を散歩していると女の子たちに囲まれた。外国人が珍しいらしい。人懐こいこうした子供たちは中学校を出てサントメの高校へ行ったりアンゴラへ出稼ぎにいったりするのだろうか? 
一隻の船もない港を守る二人の若い兵士は写真を撮ってくれとポーズを決めた。

カラチニコフ手に睥睨する兵士 片足にサンダル

サントメ・エ・プリンシペというと古いセピアの写真とか淡い変色した水彩を眺めているような思い出ばかりだ。

写真:プランシペの中学生 今は二十歳半ばを越えた女性たちなのか。。。

ガボンの思い出:臓物を切り開かれて陽を浴びるアシカ顔した水亀大き

 

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ガボンのオムブエという村に二週間ほどいたことがある。そこの漁業組合に日本が冷凍倉庫を贈与していた。その機械、冷凍倉庫や真空ポンプや、あるいは同時に提供した船外機の修理を実施するためである。今では高速道路が機能しているらしいが、その頃は船で一日をかけて密林の中を縦横に走る迷路のようなラギューンをさかのぼった。
オムブエにはけっこうしゃれたホテルが一軒あり、我々はそこに部屋を取った。ホテルの主人の父は中国人、母はオムブエの人だと、日曜日だったか、ビールを飲んでいたら隣に来てそう教えてくれた。

『父は中国からベトナム、インドシナとフランス語圏を伝いながらマルセーユにまで来た。一人じゃない。同郷の中国人の友だちと一緒でね。若い二人はマルセールまで来たもののこれといった仕事がない。それで二人はセネガルにわたり、ガボンまで南下した。それから魚の取引をしようということになり、オムブエに落ち着いた。そのころは網を入れれば魚は幾らでもとれた。魚が取れなくなれば木材を扱った。その木で作ったのがこのホテルだよ、貴重な材木ばかり使っている。これは紫檀、ほら、これは黒檀、他にも、、、』と亭主は材木には詳しかった。『いや、オムブエには住んでいない。いつもはポールジャンティにいてね、月に一度このホテルに来て金の計算をするんだ。それだけ。最近は観光客も少なくてね。観光?ほら少し奥へ行くと大きなクロコディルがたくさんいる湖があるし、後ろの砂丘を越えればすぐに大西洋だよ。クジラやイルカが見れる。砂浜にはよく象たちが来て水浴びをしている。WWFの支部もあるんだよ。運転手兼ガイド付きのレンタルカーもあるから行ってみたら?このホテルに泊まる客はみんなそうする。もう一人の中国人?息子が有名人でね、ほらジョン・ピンって知ってる?そう、首相をやったこともある実力者、彼が息子だよ。ジョンはパリで法律をやって、帰国したらすぐにボンゴ大統領に目をかけられて政府に入った。大統領の娘さんとも結婚してたんだよ。このホテルのすぐ隣に豪邸があるだろう?あれがピンさんの家だよ。いつもはいないけど休暇に帰ってくるとバーベキューに村人全員を招待してくれるよ、、、』しっかりした鉄製の門扉に守られた別荘はいったい誰のものかと疑っていたが、そうなのか、ジョン・ピンの家なのか。雑草が丈高く生えているので廃屋かとも思っていたが、、、
そんな眠り込んだままの村にはオオトカゲがのそりのそりと歩いて村人を震撼させたり、夜になれば少し下がった気温を理由に巨人のように背の高い青年たちがバスケットに興じた。気温が下がったといっても暑い、日本人にでも暑い。そして湿気。夜になるとかならず激しいスコールが来てトタン張りのホテルの屋根を叩き、すさまじい音を立てた。
そうした村で、日曜日に散歩をしていると、何か宴会でも開くのか、家の前で大きな亀を解体しているところへでくわす。男が用心深い顔をして私を見たのは密漁だったからか。亀は背中を下に解体され真っ赤な臓物がむき出しになっている。亀の頭がまったく爬虫類の頭ではなく、まるで犬かオットセイの顔をしているのが不思議だった。ここで取れたのだから淡水の亀のはずだ。あの亀の頭はなぜあんな哺乳類のような顔をしていたのだろう?十数年たった今でも不思議に思っている。

写真:オムブエ(Omboué, Gabon)

モーリタニアの思い出:フム・グレイタ

石に生え紅色に咲くバオバブの森を抜け雲母が光る砂色の湖に下りれば黒人の少年が砂地に将棋盤を描いて勝負を挑みたちまちにモールを打ち負かして白い歯を見せて笑う。

 

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モーリタニアの思い出の一つ。この湖はダム湖のフムグレイタのことだ。モーリタニア南部、セネガル河の北部ムンブツ県に位置する。土地の人はウンブツ湖と呼んでいた。ここに貧しい漁民がいて、白モールに奴隷のように搾取されていた。それを助けようと日本が冷凍倉庫や魚の運搬手段を提供する援助事業を始めたのだが、結局は支配階級の白モールが貧民を一層搾取する手助けをするに終わった。そういう事業のために一年半ほどモーリタニアにいたことがある。住んだのは首都のヌアクショットでウンブツには一カ月に二度出張したはずだ。もう十年以上も前の話だ。

モーリタニアのフランスによる植民化は20世紀初頭にはじまった。ずいぶんてこずったが飛行機の投入でようやく平定したのが1943年。独立したのが1960年だから植民地としての歴史はそれほど長くない。植民地化の歴史で有名なのは1905年のコポラーニの暗殺だろう。モーリタニアを交渉で植民地化しようとしたこの西アフリカ植民地のフランス人長官は野営地を急襲されて死ぬ。私はこの暗殺に参加したモーリタニア人の口述記録を読んでいたので、ウンブツ湖のほとりでモール茶を飲みながらモールの青年たちに「君たちの祖先は勇敢だった。強大なフランスの軍事力に対し、少ない武器でよく戦かった」とお世辞を言ったことがあった。すると青年の一人が「コポラーニを殺した男はまだ生きているよ」と教えてくれた。ウンブツに近いところに住んでいるから、会いたいなら案内するよとまで言ってくれたが、あいにく援助事業では勝手に行動することは許されない。したがってコポラーニの暗殺者に会うことはなかった。残念なことをした。

絵:15Fx2 アクリル使用 モロッコ風景

 

モーリタニアの思い出:フム・グレイタ

石に生え紅色に咲くバオバブの森を抜け雲母が光る砂色の湖に下りれば黒人の少年が砂地に将棋盤を描いて勝負を挑みたちまちにモールを打ち負かして白い歯を見せて笑う。

 

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モーリタニアの思い出の一つ。この湖はダム湖のフムグレイタのことだ。モーリタニア南部、セネガル河の北部ムンブツ県に位置する。土地の人はウンブツ湖と呼んでいた。ここに貧しい漁民がいて、白モールに奴隷のように搾取されていた。それを助けようと日本が冷凍倉庫や魚の運搬手段を提供する援助事業を始めたのだが、結局は支配階級の白モールが貧民を一層搾取する手助けをするに終わった。そういう事業のために一年半ほどモーリタニアにいたことがある。住んだのは首都のヌアクショットでウンブツには一カ月に二度出張したはずだ。もう十年以上も前の話だ。

モーリタニアのフランスによる植民化は20世紀初頭にはじまった。ずいぶんてこずったが飛行機の投入でようやく平定したのが1943年。独立したのが1960年だから植民地としての歴史はそれほど長くない。植民地化の歴史で有名なのは1905年のコポラーニの暗殺だろう。モーリタニアを交渉で植民地化しようとしたこの西アフリカ植民地のフランス人長官は野営地を急襲されて死ぬ。私はこの暗殺に参加したモーリタニア人の口述記録を読んでいたので、ウンブツ湖のほとりでモール茶を飲みながらモールの青年たちに「君たちの祖先は勇敢だった。強大なフランスの軍事力に対し、少ない武器でよく戦かった」とお世辞を言ったことがあった。すると青年の一人が「コポラーニを殺した男はまだ生きているよ」と教えてくれた。ウンブツに近いところに住んでいるから、会いたいなら案内するよとまで言ってくれたが、あいにく援助事業では勝手に行動することは許されない。したがってコポラーニの暗殺者に会うことはなかった。残念なことをした。

絵:15Fx2 アクリル使用 モロッコ風景

 

雨多い季節になれば絵を描こうヴァジャンを見せて交わるヒトを

 
 
 

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アクリル F15

とうとう24時間で7300人の感染!この町もスーパーレッドゾーンに入ってしまった。いったいどこに行けばこんなに感染するんだか・・・若い人が多いんだろうな、統計は見てないけれど。我々のような老人はひっそりと家にこもっているはずだけど。。。以前ほど買い物に出なくなったし、行く店もスーパーだけになってしまった。もちろん朝市にも行かない。あとはアマゾンの通販。そうそう、散髪にも出かけない。行きつけのモロッコ人理髪店に行かなくなった。「サラマリコム、マリコムサラム、カイファシハトカ ヤ ムハンマド」などとお決まりの挨拶は楽しみだったけれど、、、代わってブラウンのバリカンが大活躍だ。一人で散髪なんてと最初はおっかなびっくりだったけれど、やってみるとなんてことはない、簡単だ。こんなことに今まで待ち時間と10ユーロを消費していたのか、なんという無駄をしていたんだろう。家を長く開けるのは自転車に出かける時だけだ。フランス人の友人は一人もいない、いや日本人の友人も一人もいない。つまり会いたいと思う人は一人もいない。「孤独?なに、金さえあればどこで暮らそうと天国ですよ」とモーリタニアに住んだ時にはよく人の質問に答えたものだが、フランスでも同じような事情だ。金さえあればコロナだって天国、などとうそぶいていようか。

絵:F15 アクリル使用